お墓の歴史って意外と知らないことが多いのではないでしょうか?
今回はお墓の歴史をご紹介します。
「そもそもお墓はなぜ建てられるのか?」ということをご紹介し、
「どういう変遷をたどって現在に至っているのか?」を原始時代からさかのぼってご紹介していきます。
この記事を読んでいただくことで、
・日本人が葬送についてどのような考え方をもち、
・葬送がどのように変化したのか?
そして、
・葬送の変化がお墓にどのように反映されていったのか?を知ることができます。
歴史の前にそもそもお墓って何?なぜ建てるの?
お墓の歴史をご説明する前に、そもそもお墓ってなぜ建てるのでしょうか?
お墓って何?と聞かれると「石碑や石塔を建て、その下に遺骨(霊位)を埋葬するもの」と答えられる方は多いと思います。
しかし、なぜお墓を建てるのか?と聞かれると、あなたは答えられますか?
実は、お墓を建てるということは法律でも決まってないですし、義務化もされていません。
(遺骨の埋葬については「墓地埋葬に関する法律」で定められています。)
そして、「人が亡くなったらお墓を建てないといけない」と決めている(教義として定めている)宗教もありません。
ということは、お墓を建てるという行為は、民族的なものであると言えます。
文化や習慣などによって違ってくっるということです。
ですから、世界中の全ての人がお墓を建てるわけではありません。
亡くなった人を川に流してしまう民族や鳥に亡骸を食べさせる(鳥葬といいます)民族、
むしろに亡骸を包み風化させる(風葬といいます)民族など、
民族によって様々な文化や風習があります。
そう考えると、お墓の歴史を知ることで、日本民族がどのような文化や風習、しいては考え方を持っていたのかを知る一つの道標になるわけです。
では、日本のお墓の歴史をご紹介していきましょう。
日本のお墓の歴史
今回は、大まかな時代ごとにお墓の歴をご紹介していきます。
しかし、時代ごとにしっかりとお墓の形態が変遷していっているのかというとそうではありません。(例えば、土葬と火葬もしばらくは日本の中で混在していましたよね。)
そのことを前提にお墓の歴史を知っていただければと思います。
原始時代
旧石器時代
日本最古のお墓って知っていますか?
北海道の湯の里4遺跡という遺跡で、昭和58年に日本最古のお墓が副葬品とともに出土しました。平成3年に国の重要文化財に指定されています。
縄文時代
縄文時代には「土坑墓」と呼ばれるお墓がありました。
埋葬形式は土葬で、手足を曲げて埋葬し、埋葬したところの上に大きな石をのせていたようです。
これは、死者は恐ろしいものと考えられていたようで、人が死んだ後よみがえって悪さをしないよう、動けないようにこのような埋葬方法が取られていたようです。
他にも「屈葬」や「甕棺墓(甕に遺体を納める)」と言われる埋葬方法もあったようです。
縄文時代になると、総じて死者を埋葬する習慣はあったようですが、死者は恐ろしいものと考えられていたようです。
古くから「アミニズム(すべてのものの中に霊魂または霊が宿っているという考え方)」という考え方がありました。
その考えが、自然物や自然現象を礼拝するという風習につながるわけですが、このアミニズム信仰と葬法は最初から結びついていたわけではないようです。
弥生時代
弥生時代に入ると、日本人にとってとても重要な変化がおこります!何だかわかりますか?
そう「稲作」の開始です。
稲作が始まることにより、今までは獲物や食料を求めて住む場所を転々をしていたのが定住に変化しました。
そして、その土地で農耕を行う。
すると「たくさん収穫できますように!」という願い・祈りや、「たくさん収穫できました!」という感謝の気持ちが生まれだし、その考えが穀霊信仰になっていきます。
この稲作と定住化が、次の時代からお墓の歴史に更に大きな変化をもたらすことになります。
さてこの時代のお墓についてですが、甕棺墓が主流でした。
中には木棺のお墓も出土しています。
お墓の中には副葬品(銅鏡・銅剣・玉類など)も一緒に埋葬されていることから、この時代になると死者への恐怖心が和らいできていることが伺えます。
さらに、この時代のお墓には、
朝鮮半島から伝わった「支石墓」というお墓があります。
埋葬方法は、石棺や甕棺に納める場合と直接土葬する場合がありますが、共通した特徴は、埋葬箇所の上に大きな一枚岩をのせることです。
また、周囲に溝をめぐらせて、その中に方形や円形の墳墓を築く「方形周溝墓」といわれるお墓も登場します。(この方形周溝墓がのちの前方後円墳につながります。)
古代
古墳時代
古墳時代に入ると、また大きな変化がおこります。弥生時代に稲作が初まり、定住化が進むと、生産力が向上します。
すると、土地間で収穫物を奪い合うなどの争いごとがおこったりするようになりました。
そうなると、統治する人とそうでない人、つまり身分の差が生まれる結果になります。
簡単にいうと、天皇などの偉い人と庶民に分かれるようになったということです。
お墓も庶民のお墓と身分の高い人のお墓は違ったものになっていきます。
この時代の庶民のお墓は土葬が一般的でした。中には風葬といって、森や草むらに亡骸を放置する場合もあったようです。
身分の高い人達のお墓はどうだったかというと、「古墳」というものが登場します。
天皇などのくらいの高い人たちは、支配力を示すために競って大きな古墳を作るようになります。
有名なのは、仁徳天皇陵と言われる前方後円墳などですね。
古墳の種類には、前方後円墳や前方後方墳、円墳、中方双方墳、上円下方墳などがあります。
共通しているのは、土を高く盛り上げ、頂上付近に死者を埋葬するということです。
また、ちょっと変わった古墳としては、横穴古墳と言って山腹にたくさんの横穴を掘り、そこに死者を埋葬する共同墓地のような古墳のありました。
横穴古墳で有名なのは、埼玉県の吉見百穴です。
この時代になると副葬品もさらに変化を見せます。
銅鏡・銅剣・玉類はもちろん、鉄製の太刀や甲冑等の武具、食器などの日用品も副葬品として出土しています。
このことから、死者を恐れる気持ちがさらに薄まり、死者があの世でも再生する、つまり来生があるという信仰が生まれてきたと考えられます。
飛鳥時代
飛鳥時代になると、重要なものが日本に伝わります。そう「仏教」です(538年)。
仏教伝来とともに火葬の風習も伝わったとされています。
また、645年の大化の改新の際には「薄葬令」という勅使が制定され、その中で墳墓の造営について戒めがなされました。
お墓の規模や葬儀のあり方などについて決まり事が作られたようです。
この勅使により事実上日本のお墓の歴史がはじまったとも言われています。
文献資料的には700年に僧道昭が火葬されたという記述が残っているようです。(ちょうど文武天皇の頃です。)
奈良時代
奈良・平安時代のお墓事情については、実ははっきりとはわかっていません。
ただ、仏教の広まりにあいまって、火葬の風習も仏教の思想に基づく葬法として、近畿地方を中心に広まって言ったようです。
火葬が広まったと入っても、それは上流階級の話です。副葬品には金属・土器・石木などが用いられたようです。
庶民の葬法は土葬が一般的でした。
平安時代
この頃になると天皇や貴族の間では、仏式で葬儀を行うことが多くなってきました。
また、前述の薄葬令の影響で、火葬し荼毘に付すということも上流階級の間では行われるようになってきたようです。
京都では、火葬場として「荼毘所」というものが設けられました。
(東寺・四塚・三条河原・千本・延年寺)
豆知識ですが、人口が密集・増加する地域から火葬は広まっていく傾向があります。
なぜかというと、埋葬地が不足するからです。
亡骸をどこでもかしこでも埋葬すると、衛生的に問題が出てきてしまします。
例えば水場のすぐ近くに埋葬したりすることはできないですよね。
また、985年に源信によって記された「往生要集」で浄土教の観点から死後の世界が記され、追善供養が必要性が説かれました。
その影響で、天皇や貴族の間で卒塔婆を建てるようになります。
1036年に後一条天皇が亡くなり、荼毘に付されますが、その際に卒塔婆を建てたという記録が残っています。
中世(鎌倉~戦国時代)
鎌倉時代のことになると、武家に仏教が浸透し始めます。禅宗などは武家の宗派として有名ですね。
このことにより、身分の高い大名や武士階級の人々もお墓をつくるようになりました。
ちなみに少し余談ですが、仏教は大まかにいうと、天皇貴族→武家→庶民の順で時代をまたいで浸透していきます。
まず、飛鳥~平安時代に真言宗や天台宗などが天皇・貴族などの間で広まります。
その後、中世(鎌倉以降)になって、武家を中心に禅宗系の宗派が広まります。
そして、その後に浄土宗・浄土真宗・日蓮宗などが登場し、庶民の間にも仏教が広がるようになりました。
このころの庶民は、葬式自体は仏式で行うようになっていました。
しかし、埋葬については、従来の土葬または棄葬が一般的でした。
また、埋葬地・棄葬地については自分たちの生活圏から離れた場所を死者の住む場所と定めて、埋葬箇所の上に石や柱を建てるようになりました。
離れた場所というのは、村の外れなどのことです。
今でも昔からある村などに行くと、村の端に道祖神やお地蔵様が置かれている場所があります。
そういったところが、生者と死者の住む世界の境界線と考えられていたようです。
近世
戦国~安土桃山時代
さきほどもふれましたが、この頃に庶民の間で、仏教が広がりはじめました。
この頃の庶民の識字率は非常に低いものでした。
ですから、経典などは読むことができません。
そこで、「南無阿弥陀仏」「南妙法蓮華経」などの題目を唱えれば、極楽浄土に行けるととくことで、文字を読めないといけないという壁がなくなり、爆発的に庶民の間に仏教が浸透していくことになります。
庶民の間に仏教が広がることにより、現世の福徳を祈ることと来世の神々信仰が混合するようになり、それらが葬送儀礼と結びつくようになります。
また、埋葬地を管理するために僧侶がお堂を建てて常駐するようになります。
そう、地域のお寺の誕生です。
そして、村々にお寺ができ、そのお寺の中に境内墓地となっていきまいた。
庶民の埋葬方法は、この頃も基本的に土葬ですが、亡骸は木棺や桶におさめるようになりました。
そして、埋葬箇所は盛り土をし、目印に石や木を置くようにもなりました。
これが現在のお墓の前進となるものです。
江戸時代
江戸時代になると、武士のお墓に関しては階級により板塔婆(卒塔婆)や石塔婆が用いられるようになりました。石塔婆は今のお墓の原型といわれています。
庶民に関してはまた大きな変化が訪れます。そう、「檀家制度」です。
檀家制度というのは、簡単に言うと檀家となっている家や人の葬祭供養をそのお寺だけが行えるという約束事を取り交わした関係です。
檀家制度によって、お寺は今でいう市役所のような役割も果たして行きますし、檀家寺の許可がないと婚姻もできませんでした。
庶民の埋葬方法については、従来どおりに執り行われてたようです。
また、江戸・大阪・京都などの人口密集地では火葬が行われるようにもなりました。
近代
明治時代
明治時代に入ると、廃仏毀釈などにより檀家制度は法律上の根拠がなくなりました。
しかし、人とお寺との結びつきは根強く残る形となりました。
明治に入ると、日本の人口が爆発的に増えていきます。
それに伴って、埋葬地の不足が深刻化していきます。
そんな中、明治7年に日本ではじめての公営墓地が青山・谷中・雑司が谷・染井などに登場します。
これまでのお墓というのは、故人単位で埋葬するのが基本的な形でしたが、前述のとおり、人口増加に伴い、埋葬地が不足していきます。
そして、この時期には家長制度という制度がつくられ、長男が家督を継いでいくという形が法律化されていきます。
この2つの事情の影響で、現在のお墓の形である「○○家の墓」という形態のお墓が登場するようになりました。
大正時代から昭和初期
大正時代に入ると、墓地不足は更に加速していきます。
その影響で、土葬から火葬への移行が人口の多い地域を中心に進むようになりました。
また、火葬への移行は、公衆衛生上の点からも進められていきます。
明治時代には伝染病屍体の火葬が義務付けられるようになりましたし、この頃になると都市部では土葬を禁止する区域も出てくるようになりました。
また、火葬の技術の進歩や墓地の公共施設化なども火葬への移行を加速させる要因の一つとなります。
大正時代から昭和初期にかけて、明治時代に登場した「○○家の墓」いわゆる現在のお墓の形態がスタンダードなものになっていきます。
実は現在のお墓の形はスタンダードになってから、100年ほどしか立っていないのをご存知でしょうか?
そして、葬送の方法は100年周期で変化していくと言われていますが、2018年の今がまさに変わり目の時期のど真ん中なのです。
昭和初期に入ると、広大な敷地で整然とした区画を持ち自然と調和するような公園墓地が造成されるようになります。
東京方面ですと、昭和10年に八柱墓地、昭和23年に小平墓地、昭和46年に八王子墓地などが造成されました。
以後、民営なども含めた規模霊園が全国で造成されるようになります。
現代
現代のお墓は、竿石と呼ばれる石碑の下にカロートと呼ばれる納骨室があり、その中に遺骨を埋葬する形式が一般的です。
カロートとは日本語の造語ですが、由来は「唐櫃」から来ていると言われており、櫃とは、かぶせ蓋のついた箱のこといいます。昔はカロートのことを「屍櫃(かろうと)」や「唐櫃(からびつ)」と呼んでいました。
1950年代になると火葬の割合が50%を超えるようになり、1980年代に90%を超えました、現在では99.9%が火葬される状態です。
逆に考えると1950年代までは半数が土葬なわけですから、墓じまいをする際などには埋葬者および亡くなった時期(埋葬時期)をしっかり確認することが大切です。
昨今では、都心部では墓地不足が加速してきています。
それに伴い、屋内墓地やビル式霊園、地下式霊園などが登場してきています。
また、社会情勢やライフスタイルの変化、少子高齢化などによる承継者不足などもあいまって、お墓の形も変化してきています。
その一つが「永代供養墓」と言われるものです。
今までは、自分の終の棲家は決まっているというのが一般的な価値観でしたが、今は自分の埋葬方法は自分で選ぶ時代に突入してきています。
ちなみに、世界的に見ると、日本は火葬先進国なのをご存知でしょうか?
ヨーロッパやアメリカでは土葬が主流です。
これは、キリスト教の影響によるもので、最後の審判で亡くなった人は復活すると信じられており、火葬をしてしまうと亡くなった人が復活できなくなると考えられているからです。
中国や韓国では火葬と土葬は半々くらいの割合です。これは、儒教の心身二元論の考え方の影響と言われています。
というわけで、今回は日本のお墓の歴史についてご紹介しました。
死者への恐れに対する埋葬からはじまり、時代の変遷とともに現在のお墓・埋葬方法に至り、そして、お墓は100年周期で変化していいているということがおわかりいただけたかと思います。